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[対談] ブレイクスルーのヒント

創造的破壊が、未来を拓く

HOST

セブン&アイHLDGS.
CEO兼会長
鈴木 敏文

GUEST

DOWAホールディングス会長・CEO

吉川 廣和 氏

(よしかわ・ひろかず)
1942 年、群馬県生まれ。
1966 年、東京大学教育学部卒業後、同和鉱業( 現DOWA ホールディングス)に入社。人事部長、取締役新素材事業本部長、常務取締役、代表取締役専務、副社長を経て2002 年同社社長に就任。2006 年 持株会社「DOWA ホールディングス」設立とともに、同社会長・CEO に就任、現 在に至る。2008 年「毎日経済人賞」受賞。著書に『壁を壊す』。

2008年11月収録

世の中の変化を認めて自らを変える

鈴木 今回は、明治以来の歴史を持つ非鉄金属会社のDOWAホールディングス会長・CEOとして改革の先頭に立って成果を上げてこられた吉川さんをお迎えしました。吉川さんは、その前身である同和鉱業の企画・管理部門を統括する専務に就任された1999年に全社規模の事業構造改革に着手され、2000年から昨年度までの7年間で経常利益をおよそ10倍にも伸ばされました。歴史のある会社ほど、過去の習慣を断ち切り、改革するのはたいへんなことだと思いますが、それを見事に成し遂げられました。今日は、その改革の考え方などをうかがいたいと思います。御社は今年で創業何年になるのですか。

吉川 1884年(明治17年)に同和鉱業の前身である藤田組が政府から小坂鉱山の払い下げを受けて創業し、今年で124年になります。

鈴木 改革に取り組まれる前の会社は、どんな雰囲気だったのでしょうか。

吉川 同和鉱業はもともと国内に優良な鉱山を持ち、鉱石を製錬して銅、亜鉛、金、銀、鉛などの非鉄金属を生産することを主要事業としてきました。社員の間には、日本の近代化を担い、戦後は復興・高度成長を支えてきたという自負がありました。しかも、高度成長期までは供給不足の状況下で「つくれば必ず売れる」という状態でしたから、いかに売るかではなく、安定して供給することが最大の使命でした。こういう環境下で、いつしか社会を支えているという自負や使命が、「自分たちは偉いのだ」という錯覚に変わり、悪い意味での官僚主義がはびこっていきました。

鈴木 なるほど、私どものスーパーストア事業も似ていますね。高度経済成長時代に大きく成長を遂げたのですが、モノ不足の時代でしたから、極端にいえば店をつくって商品を並べれば売れていたわけです。しかし、それを自分たちの実力によって成果を上げられたのだと錯覚して、需要と供給が逆転し消費飽和の時代へと市場環境が変化しているのに、売り手市場だった過去の成功体験に頼った商売からなかなか脱皮できませんでした。

吉川 私どもでは、優良な鉱山を持っていてそこから上がる収益も大きかったのですが、その利益は、赤字事業の穴埋めと海外の鉱山への投資のために消えてしまい、売上げが増えるとともに有利子負債も増えるという状況が続きました。さらに、80年代半ばに急激な円高になりますと、ドルベースで取り引きされている非鉄金属は、製品価格が暴落して、国内鉱山はみなつぶれていきました。1ドル360円だった為替レートが1ドル120円になったら、それだけで製品価格が3分の1になってしまうので、成り立たないわけです。

鈴木 それだけ環境が変化すると、社内でも危機感が広がったのではありませんか。

吉川 ところが、経営幹部の間でも危機意識はありませんでした。資産を切り売りすればなんとかなるという意識が強かったのです。何しろ明治以来の簿価で土地や株を持っていて、土地や株が値上がりを続けていれば、売っても売っても含み益が減らない状態でした。人は弱いもので、どんなに追い詰められても、どこかでまだ大丈夫と考えたがるものです。

鈴木 変化を認めて、自分を変えるということは、たいへん難しいことですね。イトーヨーカドーは1981年の中間期で会社設立後初めて経常利益減を経験しました。これは、モノが世の中に行き渡るようになり、モノ不足だった高度成長期とはお客様の買い方が変化した結果でした。しかし、当時ほとんどの幹部社員は、その業績悪化を天候不順のためなど、一時的な売れ行きの悪化だと考えて、いままで通りの商売の仕方を続ければなんとかなると考えていました。
しかし、私は、世の中の変化に対応できていないために、業績が悪化したのだから、いままでと同じことを続けていたら、将来がないと考え、思い切った改革の必要性を説いて、82年から業務改革を進めてきました。

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